俳句時評 真実の手触り (「朝日新聞」全国版)

「朝日新聞」2019.5.26、朝日俳壇・歌壇欄、11面。
俳句時評。以下は全文。
 
 
事実と真実は異なり、しかも相反するわけではない。例えば、「群青」代表の櫂未知子の『自註現代俳句シリーズ』(三月、俳人協会)を見てみよう。
 
  稲妻や箒に残る母の癖
 
 雷が空を切り裂くある日、掃除を怠らなかった母の面影を箒に感じた句と思いきや、解説に「母は掃除が大嫌いだった」とある。無論、事実と異なるゆえに価値が下がるわけではなく、そのような母親を「箒に残る母の癖」と詠む作者の存念を考えるべきで、そこに俳人としての真実があろう。櫂は、次の句を「それが良かったような、悪かったような」と自解していた。<母はまだ父に恋して蠅叩>。
 
 一方、事実そのものが真実に触れた句もある。「円座」主宰の武藤紀子へのインタビュー本『たてがみの掴み方』(四月、ふらんす堂)によると、次の句は実体験の忠実な写生という。
 
  斑猫の消えしと見ればふえてをり
 
 光沢ある斑紋をもつ斑猫は道教えとも呼ばれ、山路等で人を誘うように飛んでは少し先に止まる虫である。武藤は掲句の情景に遭遇し、そのまま客観写生として詠んだという。真実の不思議な手触りがあると感じたためだ。

 ところで、真実とは万人が納得する回答や処方箋ではない。では、何が真実なのか。それはあなたが何を俳句と信じるかにかかっており、しかも日々の事実は私たちの存念と無関係に現われては消えゆく。その中で俳人が掴む真実とは、例えば武藤が親炙した故飴山實の次のような句かもしれない。

  なめくぢも夕映えており葱の先