芭蕉 俳人としての誇り   (総合俳誌「俳句研究」)

  
総合俳誌「俳句研究」75-3号、夏号、2008.6.15、pp.116-117。
近代俳人芭蕉像は正岡子規の価値観を踏襲した形で受け継がれている。まず、子規の芭蕉像を明治期の俳諧宗匠達の芭蕉観と比較することでその特徴を見定め、そして戦中の山口誓子や戦後の中村草田男等に共通する芭蕉への想いを考察した。
(以下、掲載文)
  
 
 
近現代俳人芭蕉像には共通点がある。それを知るには明治期前後における芭蕉像の変容を見ればよい。そのため三森幹雄という俳人から筆を起こそう。
 
 三森幹雄(1829[文政12]-1910)は「俳諧教導職」(明治初期に新政府が設けた国民教化職)として活躍した俳諧宗匠である。彼は芭蕉を「祖翁」と崇めて深川に芭蕉神社(!)を建立、毎年、芭蕉の命日に祭式を挙行した。その幹雄は芭蕉句を次のように解する。

     高野にて  
   父 母 の 頻 り に 恋 し 雉 子 の 声  祖翁
  (略)人は死するまで父母の恩愛を忘れざるを孝とはいふ也。(略)雉子の声の悲しく人を驚かすに、さてさて父母の恋しき事よと追慕の情をおこしたる事でござる。(略)是等を思ても孝は百行の源なるを知るべし。(「俳諧新報」1879.6)

 高野山で「雉子の声」を聞き届け、「父母の恋しき事よと追慕の情」をあふれさせる「祖翁」。天理人道・敬神愛国等の教化を職務とした幹雄にとって芭蕉句は「俳諧教導」の体現であり、「父母の恩愛」を十七字で謳った「祖翁」こそ神であった。
 
 今から見ると幹雄の芭蕉観は奇異に感じるが、江戸期に芭蕉は神格化され、また道徳書等に芭蕉句が頻繁に取り上げられたという経緯がある。幹雄はその明治版といえよう。
 
 この「祖翁」像を批判したのが正岡子規である。子規は「芭蕉の俳句は過半悪句駄句」(「芭蕉雑談」、1893)と断言し、「祖翁」観を全否定した。子規は芭蕉にまつわる全ての伝説をふるい落とし、また道徳・教訓的な価値観を追放した鑑賞態度を打ち出したのである。
 
 加えて子規は連句を否定したため、実体験に還元しうる十七字の句が多く読まれるようになった。以降、俳人は基本的に「道徳・教訓的な句と連句を除いた芭蕉」と向き合うこととなり、これが近現代における芭蕉像の共通点となる。そして、それぞれの俳句観に沿って芭蕉という“古典”に接したのであった。
 
 
 明治中期、俳書蒐集家の角田竹冷達は『芭蕉句集講義』で発句のみを取り上げた。竹冷は飄逸な句をひねり続けた弁護士であるが、稼業の憂さを晴らすかのように膨大な蘊蓄を傾けて芭蕉句を読み解いている。
 
 大正期に入ると、自由律俳人が集う『層雲』主宰の荻原井泉水は、芭蕉を「自分の霊魂を育てるために人の心の真実を求めて」(『旅人芭蕉』、1923)旅をさすらう芸術家とした。かたや高浜虚子は、このような芭蕉像に冷水を浴びせ、「芭蕉のやうな生活は普通の人のせぬこと」(「芭蕉の境涯と我等の境涯」、1923)と凡人としての写生句を推賞した。
  
 種田山頭火などの放浪俳人を抱えた井泉水、また大多数の凡人に直面していた虚子、どちらも自身が頼りとする俳句観を芭蕉に投影して語ったのである。
 
 時代は移り、昭和の戦局が悪化した頃、伊勢で療養していた山口誓子芭蕉書簡の一節「風雅間断無し」に勇気付けられ、戦時ニュースを聞きながら句作に没頭した。また「俳句は文学ではない」と宣言した石田波郷が一兵卒として中国戦地に赴く時、懐中に忍ばせようとしたのは『芭蕉全集』(名著文庫)であった。戦時下に二人は俳人の矜持を保つため、芭蕉を必死に読んだのである。
 
 終戦後も芭蕉は読まれ続けた。「第二芸術」(桑原武夫、1947)とされた俳句観への反論として、また高度経済成長期の明るさの中で芭蕉像は多様な姿を見せる。
  
 中村草田男は「人間をうとみつつも人の世から離れ得ない」(「芭蕉の五句」、1956)近代生活人の姿を芭蕉に見たが、それは草田男自身の姿であったろう。
  
 これに反し山本健吉達が芭蕉の到達点は「軽み」にあったと提唱、学者や実作者も含め賛否両論を巻き起こしたが、今からふりかえると、「軽み」は急速に平和になりつつあった戦後世相に格好な芭蕉像だったのかもしれない。
 
 新幹線が東海道山陽道を疾走する時代、加藤楸邨は『奧の細道』の道程を徒歩で確かめることで、かつてない豊かさの中で稀薄になった俳人の緊張感を取り戻そうと試み、一方で芭蕉連句に膨大な注釈と鑑賞を付けうる橋輭石のような俳人も出現した。
 
 そして平成年間、芭蕉を語らない俳人はいまだ存在しない。
 
 
 ところで、上記の俳人達は実作者である。
 
 自身の感情に鋭敏である句作者は、現在と異なる芭蕉自身の価値観より、現在に響くものを芭蕉から取り出したといえよう。この点、芭蕉の読まれ方は俳人の数だけ存在するといってよい。
 
 しかし、子規によって否定された三森幹雄や子規自身も含め、明治期から平成期に至るまで俳人芭蕉から取り出そうとした心情は一貫したと感じられる。
 
 近現代俳人達が芭蕉に見出そうとしたものは、「俳人としての誇り」だったのではないか。