明治の蕪村調、その実態―俳人漱石の可能性について―  (学術誌「日本近代文学」)

「日本近代文学」84集、2011.5.15、pp.1-15。
 
小説家になる以前、夏目漱石俳人として知られたが、その実態はさほど研究されなかった。たとえば、俳人漱石と蕪村の関係は、これまでは次のようにまとめられることが多い。
 
漱石が句作を始めた頃は、子規達が蕪村の影響で「写生」句を詠み始めた時期にあたる。しかし、漱石句は「写生」というより物語性の強いもの、浪漫性の高いものが多いとされ、そのため彼は子規達の「蕪村=写生」句と異質の句を詠んだ俳人、と説明されることが多かった。
・また、子規達の蕪村発見=「写生」は彼らの俳句革新運動を強力に後押ししたが、漱石が蕪村から影響を受けた句は子規らの革新運動とやや外れたところに位置し、その作品は漱石文人性や小説家の資質(物語性がある、浪漫性が高い、etc…)を示すものが多い。
 
 以上が従来の定説である。
 しかし、当時の子規達や漱石の句を実際に調べると、上記の通説と異なる点が多々見られる。
 
①そもそも、「蕪村の最初の発見者=子規達」という通説は誤っている。子規達より以前に俳諧宗匠達は蕪村を知っており、それは彼らの俳論のみならず、作品面でも多々確認しうる。 
②蕪村に影響を受けた子規達の俳句に、「写生」句は意外に少ない。むしろ、子規達の「蕪村調」は物語性が高く、漱石のみ特別ではない。
③また、従来は蕪村発見=写生=俳句革新運動、と説明されたが、子規達の「蕪村調」が俳諧宗匠達を強く刺激したのは「写生」のためでなく、違う理由だったこと。
④ ①〜③を踏まえた上で漱石の「蕪村調」を読むと、その特徴は子規派独特の「蕪村調」と共通点が多いとともに、当時の俳諧宗匠達の句群と全く異質だったことが分かる。この点、“俳人漱石”は子規達の俳句革新運動を体現する俳人だったといえる。 
⑤しかも、ある種の漱石句には彼独特のユーモアが込められており、それは子規派の中でも異彩を放つ資質だった。
 
 これらを中心に論証することで子規達の蕪村発見や俳句革新の実態を検討しつつ、“俳人漱石”の魅力を、またその可能性を述べた。