【エッセイ】趣味と写真と、ときどき俳句と13-1 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について1

初出:サイト「セクト・ポクリット」、2021.7.6。
13回目は分割連載。松平家の松山藩初代、定行公は愛媛のご当地タルトをもたらした藩主としても知られ、また隠居後は松山の東野に茶屋を設け、晩年を過ごした。後年、その東野に高浜虚子や今井つる女が関係しているが、その由来や経緯などを4回に分けてまとめた。一回目は、定行公を中心にまとめた。
   

 
 
松山出身の高浜虚子が帰省した際、郊外の東野という地を訪れたことがあった。彼は幾つかの文章を書き、句を詠むなどして懐かしがったものだ。
 
 ふるさとの此松伐るな竹伐るな
 
 秋の蚊や竹の御茶屋の跡はこゝ
 
 曼珠沙華故郷の道に踏み迷ひ
 
作品のみ眺めても句意は取りがたいかもしれない。虚子はなぜ「此松伐るな竹伐るな」と呼びかけたのか、「竹の御茶屋」とは一体……東野が虚子にとっていかなる地か、前回の愛媛のご当地タルトとも少し関連させながら以下に綴ってみよう。
 
 
 
松山城を築き、市街を形成した加藤嘉明が会津藩に転封となり、蒲生忠知が入封するも嗣子のないまま急逝したため、桑名藩から松平定行が新たに入封したのは寛永12(1632)年のことだった。
 
定行の父の定勝は徳川家康の異父弟であり、つまり定行は家康の甥にあたる。徳川の親藩が中四国に入封するのは初で、関ヶ原や大阪の陣の記憶が生々しい時期でもあり、西国の外様大名への牽制があったという。
 
実際、定行公が松山に移って二年後に島原の乱が勃発し――松山藩も出兵し、戦闘に参加した――、後に長崎探題職を命じられた際にはポルトガル船が入港して緊張が高まるなど世情が不安定な時期でもあった。
 
ただ、前回の第12回連載で記したようにポルトガル船は国王の代替わりを奏上するための入港で、争いが起きることはなかった。
 
その際、定行公はポルトガル船とのやりとりの際に賞味したという南蛮菓子をお気に召し、松山への帰国時に菓子の製法も持ち帰り、それが愛媛のご当地タルトの始まりとされる。(2へ続く)
 
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上記文章を2021年に「セクト・ポクリット」に発表後、拙著『愛媛 文学の面影』中予編の9章「東野の役宅はどこ草茂り」に大幅に増補して収録した。
    
 
  
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