時のうつろい、句の響き09 九町の富士美堂菓子店 (俳誌「子規新報」)

「子規新報」2-75、2019.11.5、16p。
愛媛ゆかりの俳句や文化を綴るエッセイ。連載9回目は坪内稔典氏の故郷、佐田岬の九町に今も住む坪内光典氏を訪ねつつ、かつてカバヤ文庫が置かれていた富士美堂菓子店や町の様子を綴った。以下は全文。
 
 
「当時は車もなく、バスは道が悪い上に運賃が高いので、みな船便で八幡浜に向かったんです。港がなく、渡し舟に乗って沖合の船まで行くんですが、いつも満員でね。船べりが海面すれすれで、舟が傾いて学生が海に落ちたこともありました」と坪内光典氏は笑う。
 佐田岬半島の九町で生まれ育った坪内稔典氏の実弟、光典氏は今も九町に住んでいる。家は急な坂を登ったところにあり、庭から宇和海が一望できた。
 
 昭和戦後期、九町の人々は船に乗って半島の付け根の川之石に向かい、街歩きを楽しんだものだった。
 例えば、晩秋の農繁期に――学校も休校になり、一家総出で働いた――麦や芋の収穫を終えた時、船で川之石まで遊びに出かけた。坪内稔典少年も数百円の小遣いをもらい、金比羅さんへお参りに行くのが毎年のならわしだった。彼の回想を見てみよう。
 

「小一時間もして川之石に着くと、まっさきに金比羅さまにおまいりし、それから商店街をぶらつく。昼めしにチャンポンかきつねうどんを食べると、まだ百五十円前後の小遣いが残った。むつみ屋に寄ると、(略)『山村暮鳥詩集』を買った。七十円! はじめて自分で買った本である」(『カバヤ文庫の時代』)。

 
「むつみ屋」は川之石の本屋で、金比羅さんのお詣りで賑わう商店街にあった。地元の九町には書店がなく、川之石まで出なければ本棚に並ぶ書物を見ることができなかったのだ。坪内少年にとって、船で川之石に向かう秋は本に出会える季節でもあった。
  
 実弟の坪内光典氏によると、九町の子どもたちで本好きは珍しかったという。その中で稔典少年が早くから書物に関心を抱いたのはカバヤ文庫の存在が大きかった。
 カバヤ食品のキャラメルのおまけで、券を集めて応募すると『世界名作小説集』の一冊をもらえたという。しかも、ハードカバー製だった(ボール紙に上質紙を巻いた安上がりな製本だったが)。そのカバヤ文庫シリーズが坪内家近くの富士美堂菓子店にあり、稔典少年はガラスケース内にズラッと並ぶハードカバーに魅せられたのだ。
 
 カバヤ食品は昭和二十一年創業の岡山の菓子メーカーで、平和でおとなしそうなカバの雰囲気にあやかって名を付けたという。
 全国にカバの形をした宣伝車を走らせ、ある時、九町の富士美堂前にも姿を現した。稔典少年らは校庭でソフトボールをしていたが、「がいなカバが来とる!」(「がいな」は驚くほど凄いという意味)という仲間の急報で菓子店へ急ぎ、皆でカバの眼に当たるライトに触れたりした。
 

「カバ自動車は拡声器からひっきりなしに歌を流したが、ぼくらはその自動車のあとを村境までついていった」(『カバヤ文庫の時代』)。

 
 こうしてカバヤのキャラメルは子どもたちの羨望の的となり、そして稔典少年はカバヤ文庫に夢中になり、交換券を一生懸命集めるようになった。
 
 富士美堂菓子店は今も九町で営業している。大正時代からの老舗で、初代は洋裁師から菓子職人に転じ、松山の一六タルトの職人と長崎へ修行に行き、町に戻り菓子店を開いたそうだ。
 通常のタルトは黒餡だが、ある時ひらめいて赤餡にしたところ評判になり、それ以来赤餡タルトが店の看板菓子になった。そして戦後にカバヤキャラメルが販売された時、宣伝用のカバヤ文庫が店に届き、ガラスケースに燦然と並ぶことになったのである。
 
 戦後はお菓子を気軽に買える子は少なかった、と当主の井上さんは語る。
 店の前は学校の帰り道で、大勢の子どもらが外から店内を覗いたり、用がなくとも店の中でたむろしていた。当時の村はとにかく子どもが多く、店は学校が近かったこともあり、いつも賑やかだったという。
 そしてガラスケース内のカバヤ文庫は借りて読む子が多く、キャラメルをたくさん買って券と交換したり、本を買う子は少なかった。稔典少年もせっせと券を集めつつ、借りて読むこともあったらしい。
 
 坪内兄弟の父は甘党で、よく富士美堂に寄っては甘いものを買ったために稔典少年は父について周り、カバヤキャラメルを買ってもらった。その少年が後年、俳人となり、「河馬」をモチーフとし始めたのはカバヤ文庫の記憶が遠く響いていたのだろうか。
 <水中の河馬が燃えます牡丹雪><桜散るあなたも河馬になりなさい>等……ただ、坪内氏がこれらを句集に収めたのは、故郷を離れ、家が建て変わり、村に伊方原発が造られ、母を喪った後だった。
(この項、続く)