時のうつろい、句の響き10 佐田岬の石蕗の花 (俳誌「子規新報」)

「子規新報」2-76、2020.1.15、16p。
愛媛ゆかりの俳句や文化を綴るエッセイ。連載10回目も坪内稔典氏の故郷、佐田岬の九町に今も住む坪内光典氏を訪ねつつ、佐田岬に咲く石蕗の花に坪内氏の母親像や幼少時の坪内氏を重ねつつ論じた。以下は全文。
  
佐田岬の九町にある坪内稔典氏の実家は昭和四十年代に建て替えられたが、昔の家屋は農家を移築したものという。
 

「建てつけが悪く、隙間がいっぱいあったので、冬には隙間風が冷たかった。縁側の雨戸には節穴がいっぱいあって、台風のときにはその節穴に目をあてて海を眺めた」(『俳句の向こうに昭和が見える』)。

  
 勉強する時は部屋がないので縁側に机を置き、床下には「芋壺」があった。南予の方言で、床下を掘り、藁を敷いて甘藷を貯える場所のことだ。
 九町は漁より農業が盛んで、平地に乏しかったため山の斜面を段々畑にして耕し、主な作物は甘藷と麦だった。江戸期には宇和島藩の厳しい取り立ての中(庄屋や役人の非道ぶりに一揆が多発した)、九町の住民は天まで耕さんと山を丸ごと畑にし、明治期からは牛や豚、山羊の畜産も手がけた。
 昭和戦後の坪内家も鶏や豚、山羊を飼っており、鶏は食用、豚は売って現金に換え、山羊は乳を搾って飲む。坪内少年は芋壺の甘藷を蒸かし、つぶして熱い山羊の乳をかけて食べるのが好きだった。
 
 坪内少年が子どもの頃、農繁期になると学校は休みになり、子らは家の仕事を手伝い、麦を刈ったり甘藷を掘ったりしたものだ。
 晩秋は掘った甘藷を俵に詰め、キンマという木橇に乗せて運ぶ。
 段々畑から家までは急傾斜の坂道で、いかに多くの俵をキンマに乗せて下るかが男子の見せ場だった。九町では「ほごこかし」(俵を転がすという意味)といい、小中学生の男子たちはほごこかしに勤しみ、その甘藷掘りが終わると楽しみが待っている。
 農事納めの勤労感謝の日に村の皆で船に乗り、川之石に行って金比羅参りをした後、町歩きをするのだ。子らは数百円の小遣いをもらい、チャンポンを啜ったり、町を歩いたりと休暇を楽しんだ。坪内少年も皆と一緒に川之石に船で行き、村になかった本屋を訪ねて文庫を買ったのは前回に述べた通りだ。
 
 弟の光典氏は、兄の稔典少年は母親から多めに小遣いをもらったかもしれない、と懐かしそうに笑って話した。
 長兄だからというより、母が本好きの稔典少年を慮って他の子より多く渡したのでは、というのだ。
 坪内兄弟の母は幼い頃から勉強好きだったが、実家の酒造業が傾いたため尋常小学校を出てすぐに働かねばならなかった。勉強や本が好きなのに進学できない母を不憫に思った祖母は、ある時彼女に『婦女鑑』等を渡した(それが手持ちの書だったのだろう)。
 
 稔典氏の母はその本を終生大事に持っていた。
 後年、稔典氏が病院のベッドにいる母を見舞った際、病床の彼女は稔典氏の家の書庫に『婦女鑑』等を入れてほしいと頼んだという。これは母が本好きの自分のために「姉ちゃんらには言うな」と渡してくれた本だからというのだ。
 母は涙ぐみながら語り、そばに自分の母親がいるような仕草をしながら語った。その姿に接した稔典氏は、母が心底書物が好きだったことをしみじみ実感したという。
 それから数日後、母は静かに息を引き取った。
 
 本好きだった母は稔典少年を見て、自身が果たせなかった夢を叶えさせてやりたかったのだろうか。
 稔典少年は村で珍しい本好きだった。無論、外で仲間たちとターザンごっこやチャンバラ等の遊びにも夢中になったが、同時に富士美堂菓子店のショーケースに並ぶカバヤ文庫に眼を輝かせる少年でもあった。
 稔典少年はいつしか書くことが好きになり、詩も書き始め、川之石高校入学後は先生(「青玄」の俳人)に薦められて句作も手がけつつ、立命館大学、大学院と進学して北村透谷ら近代詩を研究する。
 折しも高度経済成長期で、芋畑が蜜柑畑に変り始め、村は伊方原発建設の賛否に揺れた。
 往時の母が学業を諦めたような貧困が急速に消え始めた時期だった。
  
 九町の坪内家を辞した後、八幡浜に戻る途中に道の駅に立ち寄ると珍しい特産品が売られている。段々畑でとれた切干大根や赤餡のタルト、石蕗の味噌漬けや粕漬け等が並んでおり、それらを何気なく見ていると坪内氏に石蕗の花の句があることを卒然と思い出した。
 <石蕗咲いて松山へ豚売りに行く><つわぶきは故郷の花母の花>等々……石蕗の花は潮風や日陰に強く、佐田岬の厳しい気候条件でも咲く花だ。
 私は石蕗の漬物を手にとりながら、次の句があったことも思い出した。
 冬になると石蕗の花がそこここに咲く村で生まれ育った坪内少年の姿を、そして本好きでありながら黙々と働いたという母親の佇まいを少しだけ実感できた気がした。
 
  つわぶきが咲きます母のいない家  坪内稔典

 (『落花落日』、昭和59年)