俳句時評 歴史性と現在   (「朝日新聞」全国版)

「朝日新聞」2019.10.27、朝日俳壇・歌壇欄、9面。
俳句時評。高山れおな『切字と切れ』、井田太郎『酒井抱一』、鈴木牛後句集『にれかめる』を紹介した。以下は全文。
 
 
俳句の本質は何か。季節感や美しい日本語、切字……これら俳句探しの営為を高山れおな(51)は次のように評する。「平成とは人びとがなぜか『切れ』に過大な夢を見た時代であった」(『切字と切れ』、8月、邑書林)。
 
 総合誌が特集を組み、俳人も「切れ」を重視したのはそれ以外に俳句たりうることを作品で証明しえない「平成無風」の裏返しと喝破したのだ。高山論は、私たちが当然と信じる伝統的な俳句観や論点が現代の価値観の産物だったことに気付かせてくれる。
 
 井田太郎(46)の『酒井抱一』(9月、岩波新書)も刺激的な良書だ。江戸後期に大名家の粋人として名を馳せた抱一を論じた労作で、琳派の画業と其角流俳諧を両手に携えた文化人の作品を味読する。
 
 抱一句は其角の「古句と積極的に唱和し、類似させ、重ねつつ」詠むため、独自の個性を是とする近代俳句観では低評価だった。井田は江戸後期の芸術観を丹念に復元しつつ、抱一の画俳にまたがる文雅の豊穣さを綴る。そこには近現代俳句が当然と信じる価値観と異なるディレッタントの世界が広がっているのだ。
 
 ところで、戦後俳句に風土性が流行した時期があった。経済復興に邁進する都会と異なる地方習俗や労働を生々しく詠む姿勢だ。北海道の酪農家、鈴木牛後(58)の句集『にれかめる』(8月、角川書店)には牛と暮らす日々を詠む句群が収録されている。それが往時の風土性と異質か否かは読者の史観次第であり、しかも力ある句はただ眼前に佇んでいる。
 
  牛死せり片眼は蒲公英に触れて  牛後