*「朝日新聞」2018.10.28、朝日俳壇・歌壇欄、面。
*俳句時評。以下は全文。
*俳句は短く、季語もある。小説や詩、短歌とも異なる詩型をいかに詠み、読めばよいのか。川島葵の『ささら水』(九月、ふらんす堂)所収句を見てみよう。
えんぴつに蜘蛛が片脚かけてゐる
夏のやや整理された机上だろうか。鉛筆に「蜘蛛が片脚かけて」じっとしているのだ。日常の無意味に近い些事を発見し、子どものように魅入る様子が平仮名「えんぴつ」にも示されている。
日常の発見でいえば、堀切克洋『尺蠖の道』(九月、文学の森)も見てみよう。
桐一葉いつもの位置に易者来て
「桐一葉」が落ちる秋の日、いつしか占い師が「いつもの位置に来て」仕事を始める。町の日常として溶けこみつつ、どこか不思議で、おかしみ漂う情景だ。
この二句の共通点は日常の些事を興がるまなざしである。四季に彩られた日々の中にふと見える非日常のひとときに出会った時、その無意味とも思える自身の驚きと些事を興がりつつ詠むのが俳句の特徴といえよう。三村純也『一』(九月、角川書店)の次の句もそういった作品だ。
鳥の巣のこんな低さに何でまた
春の散歩で見かけた景色だろうか。心中の呟きを調べに乗せたような句で、最後の「何でまた」のダメ押しが可笑しい。
退屈で、見慣れたはずの日常にふと見知らぬ世界が広がっていることに驚く感性。その小さな不思議を詠み、また読むのが俳句の醍醐味であろう。