【公開エッセイ】松山グランド劇場  (愛媛新聞「四季録」09)

初出:「愛媛新聞」2013.5.27、「四季録」より。松山市大街道付近の「松山グランド劇場」について綴った。
   


 
その昔、松山大街道付近には芝居小屋や映画館が数多くあった。明治期には正岡子規が夏目漱石とともに大街道へ芝居を観にいったり、大正期には松山中学生の伊丹万作が映画館に足繁く通ったものだ。
 
昭和20年の空襲で多くの映画館が灰燼に帰したが、戦後も人々は映画を求めた。戦時生活から解放され、娯楽も少なかった当時、銀幕の世界は並ぶものなき娯楽の王だったのだ。
 
やがて大街道には映画館が続々と出現する。有楽座やタイガー劇場、銀映、国際劇場…他の地域にも映画館は次々に現れ、愛媛の人々は瞬く間に銀幕の虜となった。
 
今の大街道から銀天街アーケードに続く交差点近くにも昔は映画館があり、名を松山グランド劇場という。戦後すぐに建てられ、連日の大入りが長い間続いたが次第にテレビ等に押され、昭和末期に閉館した。
 
跡地は今や駐車場となり、往時をしのぶものは存在しない。
 
しかし、近くには当時の映画館を知る方々が今も変わらぬ場所で店を構えている。末広堂の店主さんと廣田酒店のご夫婦にグランド劇場のことをお聞きすると、ありし日の様子を詳しく教えて下さった。
 
昔の映画館は近隣店に映画看板をかけさせてほしいと依頼することが多かったが、グランド劇場も例に洩れず相談に来たという。承諾すると毎月15枚ほどの招待券をもらえたとか。近所のよしみでタダで入れることも多く、俳優の舞台挨拶にも招待してくれたのが嬉しかったという。
 
いつも超満員で立ち見が当たり前、窓に腰かけて観ることもあった。フィルムが途中で切れると客席から「コラーッ」と怒声があがったり…昭和40年代は任侠映画が流行する一方、八代亜紀のヒット曲「なみだ恋」の映画化の時は朝から晩まで曲が流れ続けたらしい。
 
当時の映画看板は手書きなので近くに専門絵師が住んでいた、映画館の隣には布団屋やガラス屋があった…お話を聞くうちにグランド劇場が賑やかだった頃が懐かしくしのばれた。
  
お話を聞いた後、グランド劇場跡の駐車場に寄ってみた。映画館の入口付近に立つと末広堂や廣田酒店がよく見える。その向こうには青空が広がっていた。
 
 
(廣田酒店、2013年撮影。ご夫婦二人で切り盛りされていたが、閉店した)
 

 
上記文章を2022年に「セクト・ポクリット」に発表後、拙著『愛媛 文学の面影』中予編(創風社出版、2022)に大幅に増補して収録した。 
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