時評「俳句遺産05 好悪を超えた「批評」の待望」 (「現代詩手帖」)

「現代詩手帖」57-5,2014.5.1、123p。
総合詩誌「現代詩手帖」の俳句時評。以下は全文。


戦後詩の鮎川信夫や吉本隆明は、実作者であると同時に「詩」の目利きだった。
 鮎川が参加した座談会等の発言を読むと、「詩」の職人にして管理人という趣があり、また吉本は独特の嗅覚で作品を評し、賛否両論を巻き起こし続けた。
 無論、彼らの信条や好悪があり、時代認識や詩壇状況があったろう。それにも関わらず彼らが目利きとして卓越していたのは、個人の好悪を超えた凄い「詩」が同時代にあることを発見するとともに、主観に満ちた指摘と分析が客観性を帯びていたためだった。
 作品の良し悪しもさることながら、鮎川や吉本らは何をもって「詩」と見なすか、その「批評」眼に強い意志と存在感があり、一種の目利きとして同時代人に賛否を促すとともに、緊張と安心を抱かせたのである。
 
 俳句界にもかつて目利きは存在した。
 昭和期でいえば、「ホトトギス」を率いた高浜虚子や「京大俳句」出身の平畑静塔、戦前の「俳句研究」編集に携わった山本健吉らに始まり、戦後に「俳句研究」編集長を務めた高柳重信、また実作と文章で圧倒的な力量を見せた飯田龍太。いずれも過去や同時代の幅広い作品を読みこみ、実作で培った技術面での分析の鋭さに加え、俳句史の認識も備えた「批評」家であり、彼らが何をもって「俳句」とし、どの作品を称賛するかが「俳句」の定義となり、そこには俳壇のヘゲモニー争いや派閥を超えた公共性が宿っていた。賛否いずれにせよ、認めざるを得ない凄い俳人と作品が存在することを、彼らは力強く指摘しえたのである。
 
 そのような時代が過ぎ去った現在、俳句の理念は「いかに表現を上達させるか」というハウツーものに取って代わられ、「(自分にとって)この作品は良い・悪い」という感想が俳壇の「批評」として流通するようになった。
 「現代詩手帖」先月号の吉田隼人氏「良し悪しの先の「批評」を」(短歌時評欄)によると、短歌界も少なからずその傾向があるかに感じられるが、それはさておき、今年三月創刊の俳句総合誌「クプラス」は「何をもって『俳句』と見なすのか」という認識を把持するには何をすれば良いのか、その問いかけ自体を重視しようとした編集方針であり、刺激的な誌面構成である。
 
 特に興味深いのは座談会で、「『いい俳句』を馬鹿まじめに考える」(特集1「いい俳句」中の記事)「消費の正統、キーワードの王国」(特集2「夏石番矢と長谷川櫂」中の記事)における各俳人の発言は、平成年間の「俳句」のありようを考える上で示唆的だ。例えば、「『いい俳句』を馬鹿まじめに考える」における関悦史の発言を見てみよう。
 

 関 新しさとは差異であり、差異は、ドゥルーズの言葉を借りれば、反復においてあらわれます。たとえば後藤夜半の<滝の上に水現れて落ちにけり>は、先行する似たような句が大量にある。そのミニマルミュージックのような、ほんの少しずつずれたものの繰り返しの中から、異質な決定的なものが生まれる。(略)微差でしかないものを見きわめて、どれが場外ホームランかを決定するのだから、批評や目利きが要請されるわけです。

  
 戦前の「ホトトギス」において、後藤夜半の作品こそ「俳句」と称賛したのは選者の高浜虚子であった。「クプラス」は、虚子のような「批評」が不在の平成年間に創刊したことを意識しえた稀有な俳誌といえよう。