*「朝日新聞」2018.5.27、朝日俳壇・歌壇欄、11面。
*俳句時評。以下は全文。
*長谷川櫂は『俳句の誕生』(筑摩書房、2018年)で、高浜虚子や飯田龍太らの目利きが居ない現状を慨嘆する。実作に秀でた彼らは抜群の批評眼も備え、何が俳句かをゆるがせにしなかった。目利きが俳句と認めると、その時代の常識や先入観では判断のつかない句でも、人々は名作と納得し、受け入れるのだ。
現在、傑作の認定は各俳句団体や雑誌の賞が担うことが多い。その評価は様々だが、芝不器男俳句新人賞は才能ある若手を発掘する貴重な賞である。芝不器男は20代で夭折した天才的な俳人で、昭和初期に「ホトトギス」で頭角を現した。
永き日のにはとり柵を越えにけり
セピア色じみた永遠の懐かしさが漂う情景を詠んだ不器男。その彼の名を冠した新人賞は4年に1度の開催、対象が40歳以下、応募は100句で、第5回の本年は生駒大祐(30)が受賞した。
足跡の海中に絶え初明り
秋燕の記憶薄れて空ばかり (受賞作)
海や空に人の気配が漂いつつ、明晰で透き通った世界に曙光がさしそめ、青空のみ広がりゆく……生駒の句は内容を理解して分かる作品ではない。分かるとは異なる次元で、言葉や気配そのものが読後にたなびくように漂う点がすごいのだ。
隙のない上手な句や斬新さを狙った句と、すごい句は別次元にある。生駒は凄い傑作を詠む可能性を秘めた俳人だ。この世に生きる不思議さのただ中で、子どものように首をかしげ、たたずむ気配を詠みうる感性は感嘆の他ない。
六月に生まれて鈴をよく拾ふ 大祐