俳諧いまむかし(二十八) 三月 弘美 (俳誌「氷室」)

出典:俳誌「氷室」17-3、2009.3、pp.44-45。井上弘美氏の句集『あをぞら』所収の一句と、自身の中高校勤務の体験について綴ったもの。以下は全文。
 


中高一貫校で国語を教えている。家から電車で一時間ほどで、草深い田舎にあり、学校までの道のりが運動によい。
 
 中学、高校と同じため、何年もの付き合いになる生徒が多い。中学一年の時には寝ぐせをつけて口を開けた子が、高校生になるとブランド服を身にまとい、眉毛の手入れをした端正な顔で「先生、チャック開いてるで」と指摘するのだから、世の中は分からないものだ。 
 
 授業中の彼らは私語もすれば、話を聞かないことも多い。朝日のあたる机上で寝顔をさらす生徒もいるし、まじめに聞いているかと思うとノートにヒバゴン(広島の未確認生命体)を丹念に描写していた、ということもあった。しかし、彼らはチャーミングで能力にあふれ、ユーモアも備えているというのが実感である。
 
 特に彼らの能力――というより才能――を強く感じるのは毎月の「読書ノート」だ。それは生徒が読書感想文を記して毎月提出するノートで、教師はコメントして返却するのだが、気つくと彼らの感想文を読むのが楽しみとなっていた。
 
 生徒達が選ぶ本は多様であり、東野圭吾等の人気小説やケータイ小説、あるいは世界の刑罰を詳細に記した本の素晴らしさ(!)を熱く述べる生徒もいれば、川端康成『雪国』に感銘を受けるシブい生徒もいる。
 
 彼らの文章が面白いのは、10代ならではの感想が記されているとか、現在の流行がうかがえるからという理由ではない。その発想や分析、文章がすばらしいのである。個人的な感想だが、名のある小説家や定評ある評論家より面白い文を書き記す生徒は、一人や二人ではない。
 
 彼らの感想文があまり面白いので、ある時プロの文筆家に読んでもらったことがあった。彫刻のように美しい文体、そして多数の部数を売る実力を兼ね備えたその方が彼らの文章をどのように感じるか、ぜひお聞きしたかったのである。
 
 何人かの文章を読んだ後、その方は次のように言った。「光るものがある。ただ、彼らはそれを意識できているのかな」。それは私と同じ感想であった。彼らは自分達がどれほどの文才があるか、まるで自覚していないのである。
 
 将来、彼らは小説家にならず、また評論家やエッセイストや俳人にもならないだろう。
 
 自身の望む道と才能が一致するとは限らず、むしろ合致する方が稀である。それに文筆家になることが、人生の幸福に直結するわけでもない。
 
 それに、この種の才能は成績評価に反映しないため、ただ文才があるというのみあ。その多くは熱帯のジャングルが原色の蝶を永劫の時の中に呑みこむように、彼らの青春を彩る学校生活の中に埋もれるのだった。   
 
 
 
 そのような生徒達と接する中、ある時から井上弘美氏(1953〜)の句集『あをぞら』(平成14、角川書店)を折に触れて思い出すようになった。それは井上氏が教壇に立つ教師という理由はもちろんのこと、次のような句が収録されているためである。

      転 勤
   春 の 暮 教 室 に 鍵 か け て 出 づ   (『あをぞら』)

  「春の暮(の)教室」から想像されるのは、学期中は生徒達が椅子に座り、休み時間には嬌声も飛び交った教室が、夕暮れの中で整理された墓地のように静まっている、そのような光景である。
 
 窓から夜闇が忍びこみはじめた夕刻のひっそりした教室に、見納めの意もこめてたたずむ作者の心境はいかばかりであったか。
 
 その教室に「鍵かけて」というのは、単なる一仕事ではあるまい。授業中の生徒達とのやりとりや校務等に日々追われるやりきれなさといった、その学校で味わった喜怒哀楽を「教室」に封印し、次の職場に移るけじめとしての「鍵かけて」だったのではないか。
 
 教師の「転勤」(多くは三月)を季語「春の暮」で表現した点、それを「教室に鍵かけて出づ」という動作で描いた点に工夫があるわけだが、「春の暮(の)教室」から浮かびあがる、あのくぐもった夕陽に染まる教室の静けさは、同じ教師として胸を打たれずにはいられない。
 
 私自身に引きつけると、中高一貫校とはいえ生徒との付き合いは基本的に一年である。クラスが変わり、担当も変更すれば彼らとの関係は稀薄にならざるをえない。
 
 もちろん、その後も廊下で会えば挨拶をしあうし、学校のラウンジで世間話をすることもあるが、それは大事なものが過ぎ去った後の余韻という感じで、それに彼らの読書ノートを見る機会も消滅してしまう。
 
 四月からのノートで巧まざるユーモア(本人も天然だった)に満ちた名文(迷文?)を書いた生徒や、通常の四、五倍の量を書き連ねた子(それは胸を打つものだった)、あるいは辛辣なウィットに富む感想を記す生徒もまた、春になれば教室から去っていく。三学期を終えたある日、彼らの座席には夕陽が射しこみ、墓碑のように宵闇に沈みゆくのだった。
 
 彼らが卒業式を迎えるその日を想像してみる。
 
 授業教室に生徒達の姿はすでになく、あるいは音楽室にも彼らの姿はない。音楽室の窓際にはピアノが一台たたずみ、黒く滑らかな表面には三月の青空がまばゆく映っている。もはや音の鳴らないピアノに映る空はきらきらしているが、それは喪失を前提とした明るさだったといえば、詩的に過ぎるだろうか。
 
 
 

  卒 業 の 空 の う つ れ る ピ ア ノ か な    (『あをぞら』)