俳諧いまむかし(十一)「写生」ということ(四)保田與重郎(その二)  (俳誌「氷室」)

出典:俳誌「氷室」15-10、2007.10.1、pp.30-31。
 
 
 
 昭和の批評家である保田与重郎(明治43〔1910〕〜昭和56〔1981〕)は、正岡子規の「写生」を次のように述べている。

写生は所詮病床の最も美しい眼の変形であつた。恐らく子規にあらはれた感傷の相である。(「正岡子規について」、昭和10。引用は保田与重郎文庫2『英雄と詩人』〔新学社〕、18頁より)

 通常、「写生」は見たものを客観的に写す技法とされることが多い。ところが、保田は「写生」を美しい感傷に支えられた人工の現実と見なしたのである。
 今回、この保田の視点から「写生」を考察してみよう。たとえば、保田は子規を次のように捉えていた。

子規の青年の精神に、はるかにすさまじく強烈であり、より文学的に尊敬すべきものを味はつた。(略)子規のえらさには、ひたぶるな狂にちかい文学のかげりもあらう。(「正岡子規について」、8〜10頁)

 子規の偉大さは、「ひたぶるな狂にちかい文学のかげり」にあったという。この指摘は「写生」の側面を簡潔に捉えている。
 


 
 
 保田は、元禄期の松尾芭蕉に畏敬の念を惜しまなかった。
 普通、私たちは俳諧に生涯を費やした芭蕉のような人物を、風流に遊ぶ隠者とか、花鳥風月を愛でる心優しい人物という風に捉えがちである。
 しかし、保田にとって芭蕉は隠者などではなく、畏怖すべき勇者であった。

 芭蕉は勇士の名にふさはしい俳諧者を愛した。同時にまた、世に容れられぬ世間のよけものを盲愛している。(略)
 芭蕉は現世の栄達を棄て、さらに仏道に入ることも拒むと云つてゐる。この二つを併せて避けたのが芭蕉だつた。仏をそしるのではない、神信心にもぬかりはなかつた。むしろ懸命だつた。僅々十七文字の詩形に生涯をかけ、わが世に於て十句もなしうればと云つたその人の心は、ただ恐ろしく畏いばかりである。(『日本の文学史』〔新潮社〕、昭和47。引用は保田与重郎文庫20『日本の文学史』、340〜341頁)

 芭蕉は俳諧宗匠として暮らせる可能性を持ちながら、全てをなげうち、放浪の旅へ出た人間である。人としての生活を捨て、かといって僧侶として仏法に励むでもない。彼は現世に安住せず、来世に救いを求めず、定住と定職を拒んで旅の中で人生をさすらうというきわめて不安定な生き方を選んだのである。すべては「僅々十七文字の詩形」のためであった。
 この芭蕉の生き方を現代に置きかえてみよう。
 ある日、30代半ばの芭蕉は俳句のために会社を突然辞め、無職となった。彼はキャッシュカードを作成できず、ローンも組めない。しかも住所不定のため図書館から本を借りることも困難である。 
 しかし、芭蕉に働く気は全くなく、しきりに旅の計画ばかり立てている。仕事もせずに旅費をどのように捻出するかというと、弟子達から頂戴し、それで東北地方や信州へ出かけては句を詠み、文章を記すのだった。
 ……これではまるで落伍者ではないか。
 想像するに、多くの良識ある人々はこのような人物と関わりを持たないよう心がけるに違いない。
 しかし、保田与重郎はその芭蕉だからこそ畏敬の念を惜しまなかった。社会の常識や慣習、あるいは人並みの幸福よりも「僅々十七字」に重きを置こうとした芭蕉に狂気じみた決意と壮絶な覚悟を感じ、「恐ろしく畏い」と敬ったのである。
  


 
 子規もまた落伍者であった。
 没落士族の長男に生まれ、父を早く亡くした彼は一族の期待を担って成長する。明治時代の立身出世の風潮の中、政治家や哲学者となる野心を胸に東京帝国大学に入学した彼の前には、前途洋々たる未来が開けていた。
 しかし、子規には大学の勉強が性に合わなかった。次第に学業に身が入らなくなり、試験を放擲して小説や俳句に熱中したり、旅行に出かけるようになる。加えて肺を病んでしまい、喀血をする始末である。
 暗い将来が脳裏をよぎる中、彼は人生を賭けた小説執筆を思い立ち、文壇の寵児となって名誉と生計の獲得を狙うが、出版を断られてしまい、夢はもろくも崩れさった。
 結局、子規は大学を中退して新聞記者となり、一家を養うことになる。この時の心境を、彼は河東碧梧桐に次のように書き送った。

 人間よりは花鳥風月が好き也(明治25〔1892〕年5月28日付書簡)

 後に日清戦争が勃発した時、子規は名誉挽回の好機として従軍することなる。周囲は病身を心配して制止したが、大学中退等で負い目を感じていた子規は忠告を聞かずに半島へ赴く。ところが、船中で喀血してしまい、加えて戦地到着直後に戦争が終結したため、子規は重病人として須磨に送還されてしまった。
 須磨での療養中、もはや文学しか残っていないと思いつめ、「小生はいよ/\やけなり。文学と討死の覚悟に御座候」(藤井紫影宛書簡、明治28年11月24日)と決意した彼は、同郷の高浜虚子に自分の大野心を継ぐよう懇望する。
 ところが、虚子にあっさり断られてしまった。
 余命は数年、しかも胸中に膨らむ野心を一つとして成しえず、加えて後継者となるべき者は誰もいない。
 この現状を前に子規は逆上してしまい、破れかぶれの決意をしたのだった。

 今迄も必死なり、されども小生は孤立すると同時にいよ/\自立の心つよくなれり。死はます/\近づきぬ、文学はやうやく佳境に入りぬ(五百木瓢亭宛書簡、明治28年12月頃) 

 病床で寝たきりとなった子規は、高熱にうなされながら室町連歌から江戸俳諧の全発句を分類するという無謀な作業を進め、また徹夜を続けて俳論を書いては同時代の俳諧宗匠を痛烈に批判し、気に入らない意見には仲間でも背筋の凍るような批判を浴びせ続けた。
 これこそまさに、保田与重郎が指摘した「ひたぶるな狂にちかい」姿ではなかったろうか。そして、このような人間が「写生」を唱えたのである。
 
  畑 見 ゆ る 杉 垣 低 し 春 の 雨  (明治29)

  草 む ら や 一 寸 程 の 木 瓜 の 花  (同)

  畦 道 の 尽 き て 溝 あ り 蓼 の 花  (明治28)

  赤 き 実 の 一 つ こ ぼ れ ぬ 霜 の 庭  (明治29)
  
 挫折と苦渋の末に詠まれたこれらの「写生」句は、他者の存在を注意深く消毒することで、人間の暮らしを自然の風景として提示しようとしている。それは、花鳥風月を歌う「写生」から人間社会を排除したために他ならない。
 他者を追放し、可憐で穏やかな風景のみを見出すこと。
 この子規の決意は元禄の芭蕉に通じる強烈な信念であり、しかも芭蕉と異質の歪んだ潔癖さであった。
 そして、このような「写生」の側面を的確に捉えたのが、保田の「ひたぶるな狂にちかい文学のかげり」という一節ではなかったか。

 病床から見る森羅万象はかつて想像を絶して美しい。(保田「正岡子規について」、16頁)

 子規の「写生」をまとめよう。
 それは大野心家がたび重なる挫折の果てに見出した静謐な風景であり、煩悶と屈託をきれいに消毒した人工の小天地であった、とはいえないだろうか。