小林秀雄「モオツァルト」

  
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫、1967改版)、p.18。
「モオツァルト」(1946.7「創元」)の一節。
美は人を沈黙させるとはよく言われることだが、このことを徹底して考えている人は、意外に少ないものである。
 優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬあるものを表現していて、これに対しては学問上の言葉も、実生活上の言葉もなすところを知らず、僕らはやむなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑えがたく、しかも、口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。そういう沈黙を創り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。
 美というものは、現実にある一つの抗しがたい力であって、妙な言い方をするようだが、普通一般に考えられているよりも実ははるかに美しくもなく愉快でもないのである。