【公開エッセイ】趣味と写真と、ときどき俳句と33 台北市の迪化街

サイト「セクト・ポクリット」、2022.12.31。
趣味や大学の授業、俳句その他の随筆。33回目は台北市西部にある迪化街の歴史や散策した時の印象などを綴った。
  


 
  
(台北の迪化街)

 
台北市の西部にあたる迪化街(てきかがい)は台湾の中でも歴史の古い界隈であり、かつて問屋街として賑わった街である。迪化街は大きな淡水河そばにあり、元来は水田が広がる地域として「大稲埕(だいとうてい)」と呼ばれていた。やがて福建省から多くの漢人(中国人)が入植して住宅地となり、迪化街は淡水河の水運を活かした物資の集散地として大いに栄え、一大商業地に変貌したのである。
 
迪化街は古くから繁栄した界隈であり、また漢人が多く住み、在住日本人の割合が少なかったこともあり、独特の建築が建ち並ぶことになった。漢人の郷里である中国の華南地域の様式に加え、バロック的な洋風や日本風の建築も混淆した結果、独特の風趣を湛えるようになったのである。
 

(顔義成商行)

 
写真の建物は1920年代に建てられ、二階部分からバロック様式の洋風建築になっているのが独特だ(一階部分は亭仔脚と呼ばれるファサードの通路になっている)。

迪化街は太平洋戦争時にアメリカ軍の空襲に遭わなかったため、写真のような日本統治時代の建築が数多く遺されることになった。多くは今も使用されており、その意味でも迪化街は台湾の歴史を物語る地域といえよう。

ところで、かような迪化街を散策していると「永楽」の名を冠した店や看板をたまに見かけることに気付き、驚いたことを覚えている。
 


(迪化街の「永楽布業商場」(布市場))

 
上の建物の切文字看板を目にした時に息を呑んだのは、日本統治時代の記憶に触れたような気がしたためだ。迪化街界隈は、日本統治時代には「永楽町」と呼ばれていた。その名残が現代の店名に遺っているとは予想していなかったため、少なからず驚いたのである。
 
「永楽町」は日本の敗戦後に中華民国政府が台湾を支配した際、迪化街と名付けられて今に至っている。「大稲埕」から「永楽町」、そして「迪化街」へ……名の変遷は、そのまま台湾の複雑な歴史を物語っていよう。ちなみに、「迪化」は「啓迪教化」を意味し、ウイグルのウルムチ一帯を指す言葉だ。かような語が永楽町一帯に付されたのは、なかなか含蓄がある。
 
午前の人通りの少ない迪化街を散策しながら、私はアジアの近代史に少し触れたような気がしたものだった。
 

 
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