宇和島文学歴史講座「南予ゆかりの近現代文学、文化を味わう」講演録要約  (「愛媛新聞」)  

「愛媛新聞」、2019.12.3、pp.46-51。
2019.8.25にパフィオうわじまで開催された第22回宇和島文学歴史講座の講演録要約。以下は全文。
 
 
南予文化ゆかりの諸芸術は数多い。九州と船でつながり、山越しに高知と行き来があり、太陽は明るく、海と山の幸が溢れんばかりにある。
 
 岩松に疎開した獅子文六が驚いたのは豊かな土地に暮らす人々の屈託のなさであり、吉村昭が宇和島を何度も訪れたのは歴史と人と食の魅力に惹かれたためだ。文学のみならず戦前の三間からは畦地梅太郎が現れ、吉田の眼科医だった小林朝治も版画を遺し、現在の宇和島には最強の現代美術家たる大竹伸朗氏が在住している。美術一つ取ってもこれだけ豊かであり、しかも獅子文六から大竹氏に至るまで、彼らは南予の日常を発見しつつ作品に昇華しえた芸術家であった。
 
 一例を挙げよう。本年春開館のパフィオうわじまホールの緞帳は大竹伸朗氏が手がけた。覗き岩で知られる赤松遊園地があしらわれ、油絵のように厚みある色彩でポップに描かれた緞帳だ。その遊園地は真珠養殖や漁業で栄えた昭和戦後期には多くの客で賑やかだったが、いつしかひっそり佇み、平成末期に閉園している。昭和二九年の開業から約六〇年後のことだった。
 
 大竹氏は文芸誌の随筆で緞帳制作に触れた際、「地方都市が未来を目指すとき、そこにはいつも無音の軋みが生じる」と綴る。時代の変遷等で町の風景が変わる時、小さな日常の姿があっけなく消えることは少なくない。見慣れた店や家の連なり、路地や小川、駅前の風情等、また見事な蔵や格子の家、立派な庭等も気付けば空き地になる。他にも昔ながらの料理や季節ごとの行事、各地域の風習等々……これらは国家の問題等からするとささやかな話かもしれない。しかし、私たちの日常や郷里の風景はその小さな一つ一つの集積ではなかったか。当たり前の日常から離れて「ここではないどこか」に憧れるのではなく、「どこか」は「ここ」だったことに気付く時、町や故郷の何気ない情景や習慣こそ守る文化だったことを発見するだろう。
 
 その点、大竹氏の緞帳は悼みを伴った記念碑であり、しかも喪失を経て初めて現れた昭和の宇和島の日常でもあった。ゆえに大畑旅館に長期滞在した獅子文六が東京の食感覚を持ち込む非を悟り、早春の白魚のおいしさを綴った随筆は岩松の記念碑であり、宇和島を訪れた吉村昭が早朝の「やまこうどん」の暖簾をくぐった逸話も小さな文化である。その彼らの本を片手に舞台となった場所を歩き、食を愉しみ、版画の風景の欠片を実際の景色に見出す時、南予の日常はさざめきとともに改めて姿を現すだろう。その営為自体が文化の持続なのであり、というのも文化とは知識や勲章ではなく、生き生きと体験するものだからだ。
 
 芝不器男の俳句を脳裏に浮かべて松野町を訪れ、二宮忠八が凧を揚げた明治橋付近を散策するのも文化であり、井関邦三郎や油屋熊八ら実業界の先人に想いを馳せるのも文化たりえる。そして、彼ら著名人以外に黙々と働き続けた膨大な人々がいたことも忘れてはなるまい。無名の南予在住者が昭和二九年に発表した次の句とともに現代の段々畑の跡地を見やる時、南予文化の持続を考える契機となろう。
 
  うけ続ぎし畑の甘藷掘る影曳きて