この本 この一句  (総合誌「俳句界」)

「俳句界」23-9、2017.9.1、pp.185。
下記二冊の一句評。
 
・小田有『げんげ道』
  
  音立てて夫在るごとく葱刻む
 
 夫に先立たれた女性が、一人分の食事を準備している。あまりに長く連れ添ってきた二人の生活が当たり前すぎて、独り暮らしに妙な違和を折々感じているが、今や一人であるのはどこまでも現実だ。食事の準備の際、ここには居ない夫にあたかも聞かせるように、そして彼を身近に感じように、あえて音を立てて葱を刻んでいる。無論、それは何も始まらないことは分かっている。音を立てている自分の行動がどこかユーモラスでもあるが、葱を刻む音は以前より響くようになった。
 一九三三年生まれ。「うぐいす」「あじろ」「沙羅の花」に学ぶ。俳人協会会員。
 
・山下厚子『エピローグ』
 
  散歩コースの墓地に眠れる関夫妻に声を掛けゆく日課のやうに
  
 足腰のためもあり、散歩をするようにしている。コースはいつも大体同じで、一人で歩く。家族のみならず気心の知れた友人も一人、また一人と先立っていった。自身も長生きしたいわけではないが、寝たきりになって迷惑をかけるのもイヤだ……それに忙しいわけでもない。だから散歩に出かける。いつもの道には関夫妻が仲良く眠る墓地があり、日課のように声をかけるのがどこか楽しみだ。「おはよう、関さん」。空は青く、風は穏やかだ。
 一九三七年生まれ。歌集『光明は心の裡に』『暮し掬ひて』、句集『温き掌に』など。