俳句時評「俳句遺産21 鴇田智哉『凧と円柱』 現存最強の文体」  (「現代詩手帖」)

「現代詩手帖」2015.9.1、p.119。
鴇田智哉(1969〜)の第二句集『凧と円柱』の紹介。鴇田氏の俳句作品は内容よりも文体そのものが認識であり、他に真似の出来ない個性たりえている稀有な俳人であり、その文体は強い影響力を及ぼす類であることを述べた。以下は全文。
 
 
女優の黒木瞳が高校生の頃、詩を書き続けるように励ましたのは「母音」の丸山豊だったという。
 黒木が西日本新聞に詩を投稿した時の選者が丸山で、彼は無名の女子高生に葉書を送り、詩作を続けるよう薦めたというのだ。その黒木は、次のように詩を書き始めたらしい。
 

「私が詩を書きはじめたのは、十二歳のときです。(略)日記帳の余白に、自分流のフレーズを書きこんだり、谷川俊太郎さんの真似をしてソネットをつくったり、いわば子供の言葉遊びの延長のようなものでした」(野田宇太郎文学資料館ブックレット『野田宇太郎・丸山豊』より)。

 
 興味深いのは詩を書き始めた黒木が谷川俊太郎風のソネットを綴った点で、つまり谷川の詩には一般人にも真似したいと思わせるものがあり、それほど彼の文体が際立って魅力的だったことがうかがえる。
 現代詩の文脈や問題意識等を知らずとも、作品のみ読んで真似したいと読者に感じさせたのは、一つには谷川の文体が圧倒的に平易かつ魅力的だった点にあろう。
 
 この意味での文体――作品内容もさることながら、言葉そのものが職人的に磨き上げられ、整えられた調べを奏でる――を現俳句界に求めるならば、鴇田智哉(1969~)を措いて他にいまい。
 昨年刊行の第二句集『凧と円柱』(ふらんす堂)を見てみよう。

  円柱は春の夕べにあらはれぬ
  こほろぎの声と写真にをさまりぬ
  まばたくと手の影が野を触れまわる
  上着きてゐても木の葉のあふれ出す

 
 誰もが体験しうる日常の些事を、鴇田が有季定型(季語+五七五)で詠むと白昼夢のように不安定な世界像に変貌するのだが、それを現出させたのは表現そのものに他ならない。極端な省略と奇妙な助詞――「円柱は・きてゐても」等――その他を駆使しつつ、鴇田は文体それ自体で世界観を提示しえる卓越した言葉の職人といえよう。

  複写機のまばゆさ魚は氷にのぼり
  うつぶせのプロペラで行く夜の都市 
  二階からあふれてゐたる石鹸玉
  7は今ひらくか波の糸つらなる

 
 これらの句からも、表現自体がまさに作者の認識であることがうかがえる。一読して内容を明瞭に把握しうる句や季語に沿った美しい句を詠む俳人、またそれを求める読者が多い中で、有季定型にのみなしえる世界を獲得しようと文体を彫啄する鴇田は俳句の可能性や未来を抱かせる数少ない俳人といえよう。
 
 彼が示そうとする世界像は思弁的であることも忘れてはなるまい。右記の句群は、記憶と夢に引き裂かれつつ、無数の潜在性とともに現前する「現在」の痕跡を句に宿らせようとした結果であり、奇を衒ったり、難解さを誇示したわけではない。彼なりに平易に分かりやすく示そうとした末の表現であり、それが引用句群のように結晶した点に鴇田智哉の俳人たる所以があるのだ。
 
 あなたが本物の「俳句」を知りたいと望むなら、『凧と円柱』を開いてご覧なさい。散文や詩、短歌とも異なる有季定型の粋を、次のように平易な言葉の内に目撃するだろう。
 
 
  ゐるはずの人の名前に秋がくる  鴇田智哉