吉川幸次郎『杜甫ノート』

吉川幸次郎『杜甫ノート』(新潮文庫、S29)、pp.120-121。
杜甫の漢詩「春夜喜雨」を解した一節。飛躍するが、ハイデガーのヘルダーリンの詩及びギリシャ哲学の解釈にも通じる滑らかさを感じる。
野径雲倶黒  江船火独明
  (野径に雲は倶に黒く 江船に火は独り明らかなり)
  
 「野径に雲は倶に黒く」、「径」は「歩道也」と訓ぜられ、車のゆく車道が大道であるのに対し、ただ人のみのゆく小みちである。
 その「野径」にかぶさる「雲は倶に黒く」、特に「倶」というのは、ものみな黒きが中に、雲もまた、他の黒きものとともどもに黒し、というのであろう。しかし、それは春雨の夜なるが故に、陰惨さを感じさせることはない。(略)恵みを受けて醞醸されるものの豊富さをこそ思わせる。(略)
 下の句「江船に火は独り明らかなり」。句意は詳説するまでもない。上の句の闇黒の中に醞醸されるもの、それはもとより醞醸の成果を将来に期待するものである。その期待を象徴するごとく、蜀江の船に、火はあかあかと、ただ一つではあるけれども燃えている、と説くならばあまりにも理路に渉るであろう。
 ただしかし、上の句の「黒」に対するものとして、下の句では「明」を点出した詩人の意識の下部には、光明の前提としての闇黒が、やがて光明そのものに移行してゆくという、推移の感覚がうつろっているのではないか。
 そうしてその感覚が、江船の漁火を、「明」として捉えさせているのではないか。「火独明」の三字は、憂愁に富むこの詩人の、他の作品の中に置かれたとするならば、それはおそらく「明」らかなるものの乏しくして、「明」らかならざるもののあまりにも多きを歎く言葉であるであろう。
 しかしこの詩の場合は、そうではない。火は光明の存在を保証するものとして、春江の上に、「独り」暖かく燃えているのである。言いかえれば詩人は、火の周辺の闇に気をくばることなく、ただ火をば熟視しているのである。