【エッセイ】趣味と写真と、ときどき俳句と14 「流れ」について

初出:サイト「セクト・ポクリット」、2021.9.30。
趣味や大学の授業、俳句その他の随筆。14回目は「流れ」について。人生には何度か「流れ」が訪れることがあるが、その「流れ」とは……といったことなどを綴った。
 


  
「流れ」に乗ることの重要さに今さらながら気づいた。
 
人生には、節目になる「流れ」ともいうべき時期が何度かあり、その時にすべきことをするかどうか、またはその時期までに準備したり、修正したりすることで、その後の人生が大きく変わるらしいことを最近実感している。
 
「流れ」とは曖昧な言い方でああり、「運に乗ることのできる時期」と言った方が近いかもしれない。あるいは「運命がこの人生に形を伴って現れてくる瞬間」とも言えるかも……いや、訳の分からない表現だ。
 
そもそも、「運」というくくり方が曖昧で、「運」とは何ぞや、といったことを明らかにする必要がある。
 
ここでいう「運」とは、自分独りの力で出来ること以上の全ての「流れ」、ぐらいの感じだ。
 
このあたりの説明はとても厄介で、まず「運」や「流れ」とはいかなる存在なのか、そして「自分独りの力」とは一体……といった話をする必要があり、しかも「運」と「独りの力」の違いとは何かといった説明も必須である。ただ、これらを説明しようとすると数万時に膨らみそうなので、今回は割愛します。
 
「運」は不思議なもので、人間界の理屈では説明不能なバイオリズム(?)というか、風の吹くまま気の向くままに近い「流れ」を持っていて、人間と没交渉に太古以前から彷徨う精霊や神々が無邪気にふりまく何か、といった感じがある。
 
その「流れ」に乗れた時には、その後が思ったより楽になったり、自分の実力や努力以上の成果や達成を簡単に得られたり、もたらされることが少なくない。
 
逆に「流れ」が過ぎ去った後に同じ努力をしたとしても、そこで得られる結果や達成感は大幅に少なく、徒労感が滲み出ることが多かったりする。どうも不思議なものだ。
 
かような「運」について忘れられないのは、人生の師匠ともいうべき年配の方から教わったことだ。その方が仰ったのは、次のような内容だった。
 
「自分独りでなしえた力量と、運は別物ということを意識すること。多くの人はその二つを区別できずに、いずれも自分の力と勘違いして、本来の自分の力量よりも大きく見積もってしまう。自分自身を見誤ると、その後は鬱々とした人生を歩むことが多くなるかもしれない」といったものだった。
 
私はこの話を聞いた時、内容は理解したが、肌でしみじみと感じるまでは至らず、それが表情に現れたのか、その方は次のように言葉を継いだ。
 
「君はまだ若いから、そもそも「運」にピンとこないかもしれない。若いというのはそれだけでチャンスが多く巡ってくるし、可能性が周りにたくさんあるからね。年を重ねると分かるよ。運や可能性そのものが劇的に少なくなるんだ。そうなった時、「運」や「流れ」がどういうものだったのか、今後は何をすればよいのか等々、少し思うところが出てくるかもしれない。もし意識的であればね」
 
「ということは、現在は「運」や「流れ」について以前より思うところがあったり、また理解の仕方が前と異なる感じでしょうか」
 
「色々あるけれど、例えば、それらに対する心構えはこの年になってもいまだ難しいねえ」
 
「といいますと?」
 
「自棄になったり、虚無的にならない程度に謙虚になることが難しい」
 
「何に対してですか?」
 
「運と運命、人に対して」
 
「運と運命は違うんですか?」
 
「重なるところもあれば、重ならないところもある」
 
「運と運命が重なるとは、どういう感じなのでしょう」
 
「例えば、「流れ」が生まれる時だね。「流れ」に乗るかどうかで、その後の人生が大きく変わるよ」
 
「「流れ」というのは?」
 
「運が形を伴ってやってきた瞬間」
 
「形を伴うとは?」
 
「「運」が現実に出来事として現れた時。人と出会ったり、誰かに何かを言われたり、または自分で何かに気づいたり、周囲の環境の変化だったりと、何事かが現れる諸々の出来事の中に「運」が「流れ」としてやってきているものがある。
 
それをパッと捉えられるかどうか、これが意外に出来ないものなんだよ。大部分の人は「流れ」が来ていることに気づかないまま時が過ぎるか、知らないうちに自分で潰していることが多いんじゃないかな」云々。
 
……こういう一つ一つのやりとりの意味や語感、言わんとする内容の諸々が、頭ではなく肌で実感できるようになったのが最近である。
 
もちろん、全てではないだろうが、人間一人の思惑や力量を超えた何かが「流れ」のようなものとしてある、という感覚は以前より感じるようになった。
 
下の画像の猫を撮っていた時期、自分の人生にはいかなる「流れ」が訪れ、または訪れないのか、あるいは訪れていたのかといった可能性その他については全く考えていなかった。
 
極論すると、「猫は可愛いな」ぐらいしか考えておらず、それはそれで幸せな時期だったが、脳天気すぎた気もする。
 
 
 
 
 
sectpoclit.com
 
note.com