【エッセイ】趣味と写真と、ときどき俳句と07 「何となく」の読書、シャッター

初出:サイト「セクト・ポクリット」、2021.4.3。
趣味や大学の授業、俳句その他の随筆。7回目は気晴らしに何となく小説の一節を読んだり、散策したり、そこで出会った猫にシャッターを切る時の雰囲気といったもの、つまり「何となく」という気分をいかに招き入れ、いかに臨むかといったことについて綴った。
  

 
 
ものを書き続けて倦んだ時、小説を何気なく手に取って読むのがいつしか愉しくなった。例えば、チェーホフの小説の次のような一節。
 
“冬の陽光が雪と窓ガラスの水の模様ごしに射しこんで、サモワールの上で揺れ、その清らかな光が茶こぼしで水浴びしていた。部屋のなかは暖かく、少年たちは、凍えた体のなかで、暖かさと寒さとが互いにゆずるまいとして、くすぐり合っているのを感じていた。「さあ、もうすぐまたクリスマスだなあ!」と、父親は、茶色のタバコを巻きながら歌うように言った。“(「少年たち」、松下裕訳)
 
こういうくだりを物語からなかば切り離して味わう。厳冬の窓越しから射しこむ陽光の清々しさを思いやり、サモワールが沸騰する響きを想像する。そんな風い味読していると、頭の中がスッとするのだ。
また、こういう気散じの読書をする際に古典はうってつけで、例えば源氏物語の「紅葉賀」巻は幾度読んでも感に堪えない。
 
“源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿の頭中将。
容貌、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。入り方の日かげ、さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏み、おももち、世に見えぬさまなり。
詠などしたまへるは、「これや、仏の御迦陵頻伽の声ならむ」と聞こゆ。おもしろくあはれなるに、 帝、涙を拭ひたまひ、 上達部、親王たちも、みな泣きたまひぬ。
詠はてて、袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、 常よりも光ると見えたまふ。春宮の女御、かくめでたきにつけても、ただならず思して、「 神など、空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」とのたまふを、 若き女房などは、心憂しと耳とどめけり。藤壺は、「 おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく見えまし」と思すに、夢の心地なむしたまひける。“
 
天上の楽のような調べが淡く、薄い霧のように身を包むような心地良さが感じられてしまう。
もちろん近代文学も捨てがたく、泉鏡花の文藻はやはり素晴らしい。
 
“と見ると、むらむらと湯気が立って、理学士が蓋を取った、がよっぽど腹が空いたと見えて、 「失礼します。」と碗を手にする。
「お待ちなさいまし、煮詰りはしませんか。」と肉色の絽の長襦袢で、絽縮緬の褄摺する音なく、するすると長火鉢の前へ行って、科よく覗いて見て、 「まあ、辛うござんすよ、これじゃ、」と銅壺の湯を注して、杓文字で一つ軽く圧えて、「おつけ申しましょう、」と艶麗に云う。
「恐縮ですな。」と碗を出して、理学士は、道子が、毛一筋も乱れない円髷の艶も溢さず、白粉の濃い襟を据えて、端然とした白襟、薄お納戸のその紗綾形小紋の紋着で、味噌汁(おつけ)を装う白々とした手を、感に堪えて見ていたが、「玉手を労しますな、」と一代の世辞を云って、嬉しそうに笑って、(後略)(『婦系図』)
  
物語の筋や内容は覚えているこれらの話を、何となくページをめくり、そこで出会った箇所をしばし読み、言葉の調べそのものを味わう。その味わいは感情のままに昂ぶり、ふとした瞬間に消え、感触だけが残る。空から降ってきた淡雪が頬に触れるや溶けて消えてしまい、冷たいものが肌をかすめた感触だけが残るように。
 
“テクストの楽しみはどうしたって、勝ち誇った、英雄的な、筋骨退しいタイプのものではありえない。そっくり返ったりする必要はない。私の楽しみは大いに漂流のかたちを取ってしかるべきだ。漂流は生起する、(略)それは〈あつかいかねるもの〉というのだろう――あるいはおそらくはまた、― ― 〈愚かしさ〉と。”(ロラン・バルト『テクストの楽しみ』、鈴村和成訳)
 
 
 
下の写真の猫は、何となく散歩に出かけた時に出会い、撮ったものだ。
最近、「何となく」という気分にいかに臨み、いかに醒めたまま流され、味わいつつ愉しみ、戻ってくるか。最近、その難しさを感じている。
 
「何となく」を、いかに待ち受けるか。
 
明確な意志を持って受けとめ、試行錯誤を経て学び、自身の糧とすべく努力を傾けるのではなく、いかに素直に、淡々と受けとめ、味わうことができるか……パラパラと頁をめくった文章の綾に抵抗なく驚き、入りこみ、ひとしきり没頭した後は何事もなかったように気分を戻す、そういう何気ない愉しみ方だ。
 
そういうことを考えると、以前と随分考え方が変わったと思う。
昔は何かを得ようと力を傾け、自分自身や仕事にとって有益な内容を効率良く、無駄なく吸収しようとガツガツしていたものだ。
 
そうして眼前の猫は常と変わらず、人間界と無関係に陽光を浴び、のんびりしている。
彼らのそんな姿を眺めていると、何となく安心するから不思議だ。
 

   
 
 
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