時のうつろい、句の響き03 徳冨蘆花と今治教会  (俳誌「子規新報」)

「子規新報」2-69、2018.10.15、16p。
愛媛ゆかりの俳句や文化を綴るエッセイ。連載三回目は今治教会に身を寄せた徳冨蘆花。彼が青春時代に過ごした今治の風景や後に再訪した際の回想等を紹介しつつ、追憶としての今治の風情を綴った。以下は全文。
 
 
名文家で知られる徳富蘇峰、蘆花兄弟を生んだ徳富家は熊本水俣の村を治める庄屋の家柄で、父一敬は横井小楠に師事して藩政に携わる国士だった。一敬は漢学を修めたが、維新後の開明の気風も手伝って子の蘇峰や蘆花は京都の同志社英学校に入学する。しかし、学生騒動絡みで兄弟は退学し、帰郷した後、蘆花はキリスト教の洗礼を受けた。蘇峰も同志社時代にキリスト教に入信していたが、特に蘆花はキリスト教の理想主義と現実との摩擦に深く悩む人生を歩むことになる。
 
 帰郷後の蘆花は兄蘇峰との折り合いが悪く、心配した一家は蘆花を横井時雄(横井小楠の長男)の居る今治教会に預けることになった。横井は徳富兄弟と従兄弟の間柄で、同志社の新島襄の薫陶を受けて今治教会――四国初のプロテスタント教会だった――で布教に励んでいた。蘆花は時雄の伝道を手伝いつつ教会運営の今治英学校で教壇に立つ。
 
 明治十九(一八八六)年、横井が同志社に戻ることになったため、蘆花も彼とともに京都に向かい、同志社に再入学した。今治での英語教師生活は一年余りだったが、多感な青春期を過ごした町として蘆花には忘れがたい土地になった。
 
 大正二(一九一三)年の秋、人気作家として名声を確立した蘆花は九州旅行を思い立ち、東京から大阪まで汽車で向かった後、船に乗り換える。明石海峡が夕焼けに染まり、播磨灘を過ぎた頃には夜になり、船は穏やかな海を静かに進む。夜半にふと目覚めた蘆花が部屋を出ると、夜が明けるに従って次のような情景が眼に迫った。
 

四阪精錬所の電燈明るい島を左舷に見る頃から、背の東が白みそめ、今治沖で夜が明けた。伊予の今治、今治は余に忘れられぬ追憶の郷である。十二の少年は、此処に伝道して居た従兄の伊勢さんの横井さんを頼つて、京都から下つて此処に休暇の一夏を遊び暮らし、十八の青年は熊本から上つて来てこゝに一年四ヶ月の冷熱常なき信仰生活を送つた。(略)約三十年、一たびも見舞ふ機会を有たなかつたが、折にふれて此海つきの小さな城下町を憶出でぬことはない。(略)春には桜花の美しかつた吹揚の城址も小高く見える。教会は如何か。町も変わつたことであらう。(『死の蔭に』〔大江書房、大正六年〕、「木浦丸」)

 
「四阪精錬所」は住友別子銅山の施設で、新居浜と今治の間に浮かぶ四阪島を指し、島全体に銅精錬所や社宅等が建ち並んでいた。精錬所は昼夜を問わず稼働し続けており、蘆花は夜闇に明るい四阪島を見て今治が近いことを知る。彼は十代初めにも横井時雄の下で夏を過ごしており、思春期に二度過ごした今治は懐かしい地だったのだ。夜空が白み、瀬戸内に曙光が射しそめる頃、沿岸には今治城も見え、彼の胸中は懐旧の念に満たされる。
 
 蘆花は、この時の旅行では甲板から今治を眺めるのみだったが、数年後の大正七年には今治の地に降り立った。静かな士族町から産業都市に変貌した町並みに驚きつつ、追憶に急きたてられるように市内を散策する。その時、彼の耳に響く音があった。「正午の鐘が鳴る。それは会堂のだつた。鐘楼が見えて居る。(略)夕方再び会堂の鐘が鳴る」(大正七年八月の日記より)。今治教会の時を告げる鐘で、蘆花には懐かしい音色だった。
 
 この鐘は、今治教会の熱心さがアメリカに伝わり、明治期にアイオワ州の教会組織から贈られた鐘で、後に札幌農学校と同志社にも寄贈された。今治は日本初の洋鐘を鳴り響かせた地であり、横井時雄ら教会の伝道がいかに熱心だったかがうかがえる。
 
 教会の鐘を聴きながら蘆花が今治を逍遙した大正七年から約四半世紀を過ぎた昭和十七(一九四二)年、太平洋戦争の戦況悪化で金属類が回収された際、今治教会の鐘も供出された。それは奇しくも大正期に蘆花が目を細めた四阪精錬所で溶かされ、また今治教会も同二十年八月の空襲で焼け落ちる。蘆花、時雄ともに昭和二年に没しており、約十八年後のことだった。
 
 秋頃、今治教会の跡地を訪れたことがある。閑散としたアーケード商店街を通り抜けた先の、港近くの雑然とした場所に碑が建っていた。潮の匂いが鼻を掠め、夕暮れが碑を染めあげる中、碑文を読んでいると港の方から汽笛の音が鳴り響く。
 
 教会の鐘よりもくぐもった、遠い世から聞こえるような響きで、やがて暮光に溶けるように消えていった。